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私の歴史と今

読んでて恥ずかしくなるのが私の歴史。だけどそのときは今現在のように真面目に書いていた訳でね。そんな私の今を書いていく。

好き嫌いがあるという不条理

不条理はすべての人のこころに存在している。
私の不条理は、インゲン豆が嫌いなこと。はは。と笑われてしまいそうだが、本当に不条理なんですよあなた。
そもそも不条理云々以前に、食べ物に好き嫌いがあることって、それほど重要なことだろうか? 私はゴキブリが嫌いだ。海外旅行も好きではない。それと同様に、インゲン豆が嫌いなだけ。単に嫌いなだけなんですよ。
しかーし、ゴキブリや海外旅行が嫌いでもいいが、食べ物が嫌いだと皆さん黙っておれない。昔と違うのだから、食べ物を取捨選択しても余裕で生きていける。インゲンが食べれないからといって栄養が偏るとも思えない。吐きそうな思いまでして食べる意味は感じない。
嫌いな虫を好きになる必要はないし、無理して海外旅行する必要もない。同様に、無理してインゲンを食べる必要もない。だからといって、ゴミ箱に捨てようというのではない。いつも隣の人に食べてもらっている。それで解決じゃないですか。

不条理とは

じゃあ、不条理とは何か。ここからが本題。
好き嫌いは軽蔑されますね。しかも、重要ではないことを重要だと説かれるのだからたまったものではない。私には理解できない。食べることができた方がいいに決まっている。けれど、食べれなくてもいいものだ。
ここまで読んだ人は、多分、こう批判する。
「食べ物に好き嫌いがあることは重要ではないと、相手を説得すればいいではないか」
そうそう。説得すれば相手から批判されることはない。けれど、これがまさしく不条理なんです。だって、相手を説得しなければならないのだから。なぜ相手を説得しなければならないの? 嫌いなだけなのに、批判を避けたくば説得しろって、不条理以外の何ものでもない。

牛を食べる

インゲンは話が小さすぎるし共感してもらないので、もう少し分かりやすい例を出します。
私たちは牛を食べる。生きようとしている牛を食べる。牛は死にたくはない。人間に食べられるために生きているのではない。その牛を人間は無理矢理殺して食べるわけだ。しかも罪悪感のない人間に。この牛の気持ちを考えてみます。
「ああ、死にたくない。しかも、死にたくないのなら逃げればいいじゃん、と言われる。だから生きるためには抵抗しなくてはならない。あるいは、逃げなくてはならない。生きたいだけなのに、、、なぜ逃げなくてはならないの?」
この牛に対して「牛に生まれたのが悪いのだろ?」といえる人がいるだろうか。